五木寛之「玄冬の門」

最近、こうしたエッセイを読むようになってきました。

 

「こうした」というのは、人生の終末をどういう気持ちで過ごすか、といった内容の本、という意味です。

 

「玄冬」というのは、春、夏、秋、冬に人生の時期を分けたときに、最後に来る時期のようです。

 

 

 

「玄冬の門」

 

「五木寛之」と言えば「青春の門」というイメージが強いので、この新書版の本のタイトルが決まったのだろうと余計なことを考えていました。

 

五木寛之83歳。

 

多くの著書がありますが、全てを読破するほどのファンではありません。

 

この本はたまたま本屋さんで手にとったものです。

内容はといえば、
「孤独を恐れない」
「自分のことは自分で」
「終末は自分で決める」
「宗教について」
といったことで、このような本としては
特別変わった内容ではなく、まあありがちなものです。

 

ただ、ちょっと面白いと思ったのは、
「パンツくらいは自分洗えと女性(妻)は思っている、」という一文です。

 

実際、そうされたら、それもまた鬱陶しいと妻は思うのではないか、と私は思っています。

 

妻は夫に、自分で下着を洗って欲しいと思っているのではなく、妻に洗ってもらって当然だという態度が気にくわない(たぶん)だけなのです。

 

だいたい毎日洗濯していれば、夫の下着一枚くらいあってもどうということはありません。

 

結局女性には家事があって、毎日忙しいのですから。

 

この「毎日忙しい」というところが、
ある年齢に達した女性と男性の違いですね。

 

 

「毎日をどう過ごすか」

 

 

これも最近読んだ小説で、定年退職した男性が「毎日をどう過ごすか」で困っているシーンがありました。

 

妻は仕事があって、
「たまには一緒に温泉でも」といってみても断られる。

 

で、勧められてジムに行くのですが、そこも昼間の図書館と同じく「じいさん、ばあさん」ばかりだったので、意気消沈する。

 

まだまだ仕事ができると思っているぶん、「今」を楽しむことができない。

 

特に趣味もないから、毎日の時間を持て余す。

 

こんな夫を見ている妻が、小説ではある日、爆発します。

 

「いい加減にしてちょうだい!毎日毎日愚痴ばかり。聞かされる身にもなってみて!!」

とまあこんな具合ですね。

 

還暦をすぎて夫婦でどんな毎日を過ごすのかは、それまでの夫婦の歴史が決めるのだろうと思います。

 

それこそ千差万別。

 

私自身は、心地よい距離感が欲しいですが、今のところ互いに仕事をしているので、朝晩にちょっと話をして、たまに気が向けばまとまった話をして、それで十分かなと思っています。

 

夫婦といえども、寄りかからず、人生を共に過ごしてきた「同志」として、生きていければいいと思っています。

 

ただ、、それもこれも、現在が健康だからの話です。

 

私の母の知人は、今89歳ですが、もう12年間認知症の奥様の世話をしていらっしゃいます。

お料理などしたこともなかったのに、80歳で料理学校に通い、いまではなんでも作られます。

デイサービスで奥様を預かってくれる時間が唯一の休める時間です。

 

奥様のためにも長生きしなければ、とおっしゃいます。

 

これもまたひとつの生き方ですね。

 

 

 

玄冬の門 [ 五木寛之 ]
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