介護職初任者研修 理想と現実

研修も「実践」にはいってきました。

前回の「宿題」が、

「利手を使わずにトイレをする」こと。

 

たとえば脳梗塞で半身麻痺とかありますが、そういうことではなく単に利手が使えない状況、というだけなんですが。

 

これでトイレすることがこんなに大変だとは!

 

時間のある方は、一度やってみてください。

 

まあ、時間がかかる、イライラする、その不自由さにびっくりします。

 

 

 

 

 

当たり前が当たり前でなくなるとき

 

 

たとえば脳梗塞の後遺症。

たとえば事故による身体の麻痺。

失明。

 

普段当たり前に使っていた機能が使えなくなるかもしれません。

 

そんなときはどうするか?

できないことよりも、「今できること」を考える。

つまり「残存機能」を活かすわけですね。

これが学習したこと。

 

右手が使えなくなったら左手を使う。

でも、これがけっこう大変です。

ボタンを外す、留める。

服を着る、脱ぐ。

それだけでも、果てしないと思うくらいの行程があります。

しかし使える機能は使わないと退化してしまいます。

自分でできることは自分でする。

これが基本ですから。

 

病気や事故が原因で、身体が不自由になることは誰にでも起こりうることです。

 

それは年齢にかかわらずあることですが、老齢の場合は環境や状況によって「うつ」になったり「認知症」になったり、さまざまな状況を引き起こします。

 

また、ヘルパーがあまりに「しすぎない」ことも大切です。

時間がかかっても自分でできることはしてもらう。

ときには話をしっかり聞く。

 

 

どんなふうに暮らしていきたいのか決めるのは本人

 

 

高齢者は子どもに遠慮して時に自分の望みを語らないことがあります。

家族の事情はあるでしょう。

でも決めるのは本人です。

何を望んでいるのか、どうなりたいのか、

そこをちゃんと理解して本人の気持ちに寄り添う、それが介護職の仕事である、ということを学んでいるのですが。

 

しかし、その一方で施設やデイサービスの抱える現状があります。

 

すでにそういう場で働いている人の話を聞くと、たとえば、一日に20人ほども入浴介助をしなければならない場合、

一人一人に時間をかけるわけにもいかず、流れ作業のようになってしまう、そこが悩みの種だ、と。

 

自分でできることは自分でする、と言う点については、服を着るときにも本当は自分でしてもらうべきなのです。

 

時間はかかりますが、そこを介助側が手出しを我慢して見守るべきなのです。

 

多くの人を預かる施設は、効率も大事です。

人が足らない、という現状もあります。

そんな中でどうやっていわゆる「介護の理念」を守るのか?

 

病院でも、リハビリ施設でも、デイサービスでも、いつの間にか理念に現実が勝ってしまう。

 

いつのまにか、介助される人と介助する人、という図式だけになって、「介助を必要とする老人」と「介助サービス」を提供する人との、機械的なかかわりだけが残る。

 

それが現状のようです。

 

そう言う意味では、「訪問介護」に当たるヘルパーのほうが、1対1の向き合いになるために、相手をよく理解し、本当に必要とされることを提供できるのかもしれません。

 

その場合、相手の気持ちを理解しつつ、依存に陥らないような配慮も必要になります。

 

これまでの人生を知り、現在の夢を知り、今抱えている無念さを理解し、どのようにして生活の質を保つのか。

 

人を相手にする、ということは、その人の人生の終末期を見守ることであり、「介護」は、つまりはそこまで、継続するのだ、という覚悟が必要だ、ということ。

それを学んだわけです。

 

なかなか荷が重い仕事です。

 

 




 

 

 

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