西城秀樹さんが63歳で死去されたとのニュースに驚いています。
1955年4月13日生まれ。
まさに同級生。
急性心不全とか・・・。
「Y.M.C.A.」の歌唱ステージがとても印象的でした。
当時の「新御三家」郷ひろみ、野口五郎の中では一番元気なイメージがありました。
二度の脳梗塞にも負けずに、リハビリに頑張っていらしたことは知っていましたので、本当に驚きました。
長くなりますが、「文藝春秋」2016年12月号に寄せられた西条さんの手記をご紹介します。
以下引用。
そのときまでぼくは、最高に健康な男だと過信していました
最初に発作を起こしたのは、2003年6月。ディナーショーのために訪れていた韓国・済州島でのことです。猛烈にだるくて眠くて、翌朝目が覚めたら左の頬が右より下がっていました。ろれつも回りません。
東京の慶應病院に勤める知り合いの医師に電話で相談したら、「脳梗塞の疑いがありますね」。仕事を終えて翌日、急いで帰国して病院へ行くと、そのまま入院。「ラクナ梗塞」という病名を告げられました。脳内の細い血管が動脈硬化などで狭くなって血液の流れが悪くなる、脳血栓症のひとつだそうです。
そのときまでぼくは、最高に健康な男だと過信していました。若い頃からワインを毎晩2本、タバコを1日4箱という生活でしたが、46歳で結婚してから食生活に気を配るようになっていました。181センチ、68キロの体型を維持するため、ジムに通ってトレーニングも欠かしませんでした。
しかし倒れる前は、3週間で5キロの無茶なダイエット。運動中もそのあとのサウナでも、水分補給をしないほうが効果があると勘違いもしていた。そんなことが、血流を滞らせる原因になったんですね。
「ゆっくりと時間をかけて病気になったんだから、ゆっくり歩いて治していこうよ」
運動機能の後遺症は軽かったのですが、倒れた直後は、何かやろうとするたびに「こんなこともできないのか」と気づくショックがありました。脳梗塞という病気について知識がなく、症状も知らなかったからです。何より問題だったのは、脳内の言語を司る神経が塞がれたために「構音障害」という後遺症で言葉が出にくく、上手くしゃべることができなくなったこと。「水」という言葉が、思い浮かばないんです。
長女は1歳。妻のお腹には7カ月の長男がいました。もう人前で歌えないのなら、生きている価値があるのか。「歌手を引退しようか」と弱音も吐きました。思い直させてくれたのは、妻が言ってくれた、
「ゆっくりと時間をかけて病気になったんだから、ゆっくり歩いて治していこうよ」
という言葉です。専門の先生について口腔機能療法というリハビリを行ない、あごの筋トレや舌のストレッチ、風船を膨らませるといった訓練のおかげで、歌を取り戻すことができました。
脳梗塞を起こした人の多くが経験する、うつ状態
2度目に発症したのは、2011年の暮れです。身体がふらついたときは、風邪のせいかと思いました。前回と同じ慶應病院へ行ってMRIを撮ってもらっても、異常は見つかりません。しかし「念のため今日は泊まってください」と言われたのが幸い。朝には、病室のベッドから起き上がれなくなっていたんです。
ショックは何十倍でしたよ。再発を予防しようと生活に気をつけていただけに、なぜ? という思いが強かったんです。
前より症状が重いことも、じゅうぶん自覚できました。唇や舌が痺れてしゃべれないし、右手と右足が自由に動かせません。前回と違って、退院後はリハビリ専門の病院へ移る必要がありました。
リハビリ室ではほかの患者さんと一緒ですから、他人の目が気になって、さらし者になっているような屈辱感を味わいました。おはじきをしたり、並べた十円玉を指でつまむトレーニング内容に、「こんな幼稚園児みたいなことやってられるか」と思いながら、できない自分。昼間はそうやって苛立っているのに、夜になると生きているのが嫌になるほどの絶望感と自己嫌悪に襲われます。これは、脳梗塞を起こした人の多くが経験する、うつ状態だそうです。
リハビリで自分の弱さを素直に認められるようになった
けれどもリハビリ室では、まだ若い人、ぼくと同じ世代の人、ずっと高齢の人が、それぞれの症状を好転させようと戦っていました。昨日まで立てなかった人が立ち上がり、歩けなかった人が歩き始める様子を見ることは、いい目標になりました。以前は、医師や療法士から「よくなってきたことを喜んで下さい」と言われても、
「気休めを言わないで下さい。ぼくは、歌えなくなったら死んだも同然なんですよ!」
と反発していたのが、自分の弱さを素直に認められるようになった。すると、注目されることがかえって励みになり、麻痺が残っていることやリハビリがうまくできないことを恥ずかしく思わなくなった。「病は気から」を実感したわけですね。
普通に接しなければならない家族や周囲のほうが、気を遣って大変なんだということも知りました。家で薬を飲もうとして落としたとき、子どもは反射的に拾ってくれようとします。それを制して自分で拾うのも、リハビリのうちなんです。子どもは3人に増えましたが、まだ中学生と小学生です。成人する姿までは、見届けなければね。
病気をして、価値観が変わりました。以前は気にしなかった季節の移り変わりを感じたり、景色の美しさに感動したり、家の中に迷い込んできた虫は外へ逃がす。殺せなくなってしまったんです(笑)。
食事は妻が気を遣ってくれて、バランスよく野菜中心です。朝は納豆とヨーグルトを欠かしません。「腹八分目」がいいと言われますが、ぼくには多すぎます。「7.5分」くらいがちょうどいい。
「7.5分」くらいの生き方で
野菜といえば昨年、埼玉県入間市に「体験型市民農園」をオープンしました。家庭菜園作りの番組に3年出演したのがきっかけです。無農薬と有機栽培にこだわった野菜を自分で育て、食べる。こんなに味が違うのかと思うくらい美味しくて、畑仕事が楽しみになっています。
いまは毎朝40分程かけて近所の公園へ散歩に行くほか、家でバランスボールなどを使ったストレッチ。発声のために、奥歯で割り箸を噛む訓練も続けています。空いた時間があれば東洋医学のリハビリに行って、骨格矯正や筋力のトレーニングを2時間半。調子のいい日はつい欲張ってしまいますが、頑張り過ぎると脚の調子が悪くなる。100%全力投球は長続きしません。何ごとにも余裕をもって、やはり「7.5分」くらいの生き方がいいんですね。
デビューから45年の今年、ステージには70回くらい立っています。移動は大変ですが、普通の生活をすることが大事ですから。『YOUNG MAN』も踊って歌ってますよ。「YMCA」の「C」のポーズで身体の左側に重心をかけるとき、ふらつかないように気をつけてね(笑)。
いまは、3度目の人生だと思っています
病気になる前は「カッコよくあることが務めだ」と信じていたし、2度めに倒れたあとは「こんな姿は誰にも見せたくない」と落ち込みました。しかしいまは、たとえ不自由でも、ありのままの姿を見てもらえればいい。むしろ、ちゃんと見てもらいたい。そう思えたら、とても楽になりました。脳梗塞やほかの病気と戦う人を勇気づけられたら――それがぼくの生き甲斐です。
最初に脳梗塞で倒れるまでが1度目。また倒れるまでが2度目。そしていまは、3度目の人生だと思っています。価値観を変え、大切なものに気づかせてくれたという意味で、ぼくは病気に感謝してるんです。病気にならずに気がつけば、もっとよかったんですけどね(笑)。
(西城 秀樹)
完全には回復していない姿でステージに立ち続けていらっしゃったのですね。
いま、街でやはり体が不自由な方が、それでも歩いていらっしゃる姿を良く見かけます。
病院のリハビリルームで頑張っている姿も。
思うようにならない身体がどれほどもどかしいか。
それでも諦めずにやっていくしかありません。
還暦を超えて様々な人生です。