90歳の母の葬儀から、もう三年になります。
父が亡くなってから二十年。
親戚にも亡くなった人が多く、葬儀の参列者は、母の子どもである私と弟、母のこの時の唯一の生存していた妹、母の甥、くらいでした。
母の交友関係が分からず、しらせるべき人もいたでしょうが、結局そのままになってしまいました。
母は最期までしっかりしていて、葬儀の費用も用意していました。
戒名や、納骨の費用、四十九日の費用、など、菩提寺への支払いが嵩み、結果50万円ほどになりました。
当時よく聞いていた「小さいお葬式」は、約15万円ほどではなかったかと思います。
この時、納骨や戒名、併せて行う四十九日法要など、よくわからないまま、お寺に払うものが増えて、納得できないながら、言われるがままにお支払いしたのでした。
亡くなった母の希望もあり、菩提寺への一連の儀式を淡々と進めたのでした。
もちろん、値段による戒名の差、(なになに居士とか)に単純に疑問を持ちましたし、それが記された「位牌」に対する宗教的な畏怖もなにもないことに改めて気づいたのでした。
となると、少なくとも自分については、ごくごく小さなお葬式で十分ですし、納骨もいらないし。位牌も、墓地もいらない、と思うのです。
それでも、自分の身の始末は、考えておかなければならないでしょう。
結局、亡くなった人の家族は、故人の希望に従うのみで、故人に代わって何かを決定することはできないのだ、と思います。
どんな決定をしても、そこに間違いない、という信念がなければ、意味が無いと思います。
人生の最期にどうやって自分の身の始末をつけるか、ある程度、具体的に指示をしおくべきでしょう。
その費用も含めて。
人生の仕舞い方は、もちろん思い通りにはなりませんが、それもまた、運命次第。
今のところ、仏壇、仏具はもういらない、と考えています。
火葬の後に残るものは白い骨。
父母を送り弟も送って、遺骨を拾う経験を重ねると、「肉体」は所詮『物」に過ぎず、やがては失われてゆくもの、という覚悟が出来てくる気がします。
わたしは 、全く宗教的素養のない人間ですから、「魂」の存在がよく理解できません。
肉体が滅ぶと同時に住処を失い、消滅するのだろうと漠然と思っています。
ですから、位牌も形だけのもの。
身近な人の記憶のなかに思い出が残れば十分でしょう。
そうして、身近な人がいなくなれば、全ては消えてゆく、それでよい。
私の父母や弟の記憶は私と共に生き、いずれ失われます。
ですから、私が生きている限り、亡くなった家族の思い出を抱きしめて生きるでしょうし、その後は、全てが失われる。
それが自然なのでしょう。
まあ。そうなると「お葬式」というものもいらないのかもしれません。
私自身はせめて「土に還りたい」と望みます。
墓の骨壺は決して「土に還る」ことはありません。
大きな意味で「生存」の循環に含まれることが、自然ではないか、と思っています。